長い間ありがとうございました!! [母の徒然日記]
ぶーの中学受験記から始まった”それいけ!魔人ぶー”
あっという間に7年が過ぎぶーは、もうすぐ高校3年になります
あの中学受験は本当に苦しかった
でもこのブログを通じて本当に沢山の方々に励ましていただき応援していただきました
あの時の気持ちはいつまでも忘れないと思います
皆様本当にありがとうございました
しかし、最近ではすっかりぶーネタもなくなってしまいました
そこでぶーネタから自分の事を綴ったブログにしようと思います
そこで心機一転!! ブログをお引っ越ししました
↓ ↓
http://kkc1009.blog.so-net.ne.jp/
これからはこちらへ遊びに来てくださいね(^^)/~~~
地震報道に対しての素朴な疑問 [母の徒然日記]
3.11の地震以来連日朝から夜の報道番組では東日本大震災の事が伝えられています
各放送局が連日キャスターや記者が避難所を取材しています
避難所での取材がきっかけで安否が判ったなんて事もあるのだから取材は悪い事ではないと思います
でも毎日テレビを見ていて疑問に思う事が多々あります
誰かに答えて欲しいと思っている訳ではありませんが書かせてくださいね
被災地ではまだまだ物資が足りない、燃料が足りないと言われている中を、色々な避難所に出向いてマイクを向けていますが、取材に行っているクルーは車で移動しているみたいですが、燃料はどうしているのでしょうか?
取材する避難所にマイクとカメラと人間だけで行っているのでしょうか?
車の空いたスペースに支援物資や燃料を積み込んで取材する避難所に届けたりしてはいないのでしょうか?
連日同じキャスターが被災地でリポートしていますが、彼らは何処で寝泊まりしているのでしょうか?
まさかホテルではないよね?
日帰り?のキャスターはなんだかオシャレな姿でリポートしていたけれど、着の身着のままお風呂にも入れない毎日の被災地の人達と真逆すぎて違和感いっぱいだったのは私だけだろうか?
夜遅い報道番組で現地からのリポートと称してキャスターが避難所の入り口から凄く明るい照明の中で話をしているけれど、避難生活で疲れきっている被災者の方達の迷惑にはなっていないのだろうか?
そして地震直後から沢山の取材ヘリコプターが飛んでいましたが、バタバタと音がうるさくて、助けを求めている人達の"助けて!!"という声が聞こえなくなってしまったりしないのでしょうか?
せめて数日間だけでも民放・NHKで代表放送局だけがヘリコプターで取材する事は出来ないのでしょうか?
遠いスタジオから政府の事をあれこれ熱くバッシングするキャスターや解説委員、ゲストの人とかいらっしゃるけれど、間違った事を言っているとは思わないから、私達一般人と違って政治家さんと繋がりのあるだろうから、直接訴えてくれたりはしないのだろうか?
福島県のある被災者が言っていた言葉がとても心に響きました
"誰が善くて誰が悪いわけではないから… これは天災だから・・・ 前を向いて生きていくしかないでしょ"
1番ダメな年齢だそうです [母の徒然日記]
今日は3週間ぶりの歯医者さんでした(最後の治療は地震の前でした)
前回の治療で、先生から殆ど治ってきていたので、次回かぶせましょうか・・と嬉しい一言
長い長い治療の日々があと少しで終わる!という状態だったのですが、なんだか地震以後痛みが復活してきているような気が…
地震で歯痛が復活するなんてあるのだろうか・・・
でも先生はあっさり"ありますよ"。。。
結構いるのだそうです そういう患者さん
さて。。。
先日久しぶりにぶーの小学校時代からの母友数人と日曜ランチをしました
話題はやはりあの地震の事
銀行員の母はカウンター中で固まってしまった 娘とラーメンを食べていた母は麺を口に運ぶ状態で固まってしまった、ジムでエアロビをしていた母はフィットネスウェアーのままジムの入り口で右往左往してしまった、会議中だった母は机の下に身を隠しながら娘の携帯に電話、そしてファミレスの中で立ったまま固まっていた母(これは私)・・・etc
どの母も今ひとついざ!という時にちゃんとした行動が出来ていない・・
ぶーや友人の大学生の息子曰く
30歳頃までの人は阪神大震災の時まだ学生だったので、学校の避難訓練で地震の時の行動をしっかり学んでいるけれど、我々40代以上の人は若かりし頃の避難訓練の事など記憶の彼方に消えてしまっていて、訳のわからない行動をとってしまう地震の時1番ダメな年齢なのだとか^^;
そして子供というのは大人と違って、バックは?! ガスは?! とか余計な事を考えず身を守る事を最優先に考えてサッと行動にうつせるから、非常に俊敏なのだそう
確かにまだ毎日の様に揺れる余震の時、サッと机の下などに動いているのはぶーだけで、私は揺れが大きければ自動的にスイッチが切れると分かっているのに、毎回ヒーターを止めに走り、そのまま固まり、ぶー父は何故だか毎回食器棚を押さえたまま固まっていますね・・・
すごかったのはぶー父の会社の人
あの地震の時グラグラ揺れている中、エレベーターで外へ出ようとしたそうです
当然エレベーターは非常停止して動いていませんでしたけど^^;
校長先生の式辞 [母の徒然日記]
これはぶーが卒業した中学の校長先生が昨日今年の卒業式でお話しされた式辞です
昨年ぶーが卒業した時も、愛がいっぱい籠った式辞だったのでアップしましたが今年の式辞は昨年と全く違う意味で思いがとても籠った式辞だったのでアップしました
一中学校の校長先生の式辞としてではなく、一人の日本人の言葉として読んでいただけたら嬉しいです
さて、3年生の皆さん。
一昨日の予行の際にもお話ししましたが、今日皆さんは、わが国が未曾有の大災害に見舞われている真っ只中で、卒業式を迎えました。
実は、私は※日前、合唱コンクールで皆さんの歌う 「 Jupiter ( ジュピター )」 を聞き届けてから、この式辞で何を語るべきか構想を練り始めました。
しかし、あの日、多くの人の命が、故郷が、思い出が、一瞬のうちに奪い去られてしまったその現実を目の当たりにした時、私は式辞で述べるべきあらゆる言葉を失いました。
あの、あまりにも巨大で、あまりにも非情な天災は、私が皆さんに語ろうとつむぎ始めた言葉までも、瞬時にして瓦礫と化してしまうほどの破壊力を持っていたのです。
ですから、これから私が述べようとしているお話しは、過去を振り返って皆さんとの美しい思い出に浸るのではなく、未来に目を向けて皆さんの前途を祝すものでもありません。
それは、校長の 「 式辞 」 としては、甚だふさわしくないでしょう。
しかし、これから私は、過去でもなく、未来でもなく、今私の目の前にいる皆さんに、今私が一番伝えたいことをお話しします。
3年生だけでなく、1・2年生の皆さんも聞いてください。
ちょうど1週間前の平成23年3月11日。
私たちは、この日を決して忘れてはいけません。
「 東北・関東大震災 」 とも 「 東日本大地震 」 とも称される、人類が未だかつて経験したことのない巨大地震が、わが国を襲った日です。
私たちは、身をもってその揺れの恐ろしさを体感しただけでなく、さらにすさまじい大津波の様子や、原子力発電所の火災・放射能漏れの様子などを、今なおリアルタイムに見続けています。
それだけではありません。
今、この式場には、親御さんが被災地に単身赴任している生徒がいます。
被災地にあるご実家が、津波の被害を受けた先生がいます。
ごく近い身内の方が、被災地で未だに安否不明という先生もいます。
先日行った調査では、被災地に親類縁者がいると答えた人は、全校生徒の約15%に上りました。
つまり、私も皆さんも 「 歴史の生き証人 」 なのです。
国家的な大きな危機のことを、「 国 」 に 「 災難 」 の 「 難 」 と書いて、「 国難 」 といいます。 今わが国は、まさに 「 国難 」 に直面しています。
その国難を乗り越えるために、今、私たちに求められているのは、一人ひとりが、それぞれの立場で何ができるかを考え、それを実行に移すことなのです。
そして、「 歴史の生き証人 」 である私たちは、自分たちがこの国難にどう立ち向かい、あの惨状をどうやって復興させたかを、後世に語り継がなければなりません。
そのとき、それを 「 テレビのこちら側で、自分の身の安全を確保していただけの傍観者 」 として語り継ぐのか、それとも 「 自分にできることを考え、どんなに小さなことでも復興にかかわった当事者 」 として語り継ぐのか … 。
皆さんは当然、後者であるべき存在です。
今かかっているこの曲は、「 Jupiter 」 です。
この曲は、平成16年に発生した新潟県中越地震で被災した方たちにとって、復興のシンボルとも言える曲でした。
災害から立ち上がろうとする人々に勇気を与えたこの曲を、皆さんが心を一つにして歌い、聴く者に深い感動を与えたということ … 。
私はそこに、何か運命的なものを感じるのです。
もし、皆さんたち若い世代が心を一つにして、この未曾有の国難を乗り越えることができたなら、それは単に大災害からの復興だけでなく、わが国をもう一度再生するきっかけにもなるような気がしています。
日本は、戦後豊かな国になる一方で、どこかで進むべき道を間違ってしまったのではないかと思えるようなことが、たくさんあります。
価値観の多様化とか、自由・個性の尊重といった言葉に隠れて、結局は自分のことしか考えない人が増えたように思えるのです。
この国難を乗り越えるには、多くの時間を要することでしょう。
しかし、皆さんが心を一つにすることでいつかそれを成し遂げたなら、政治や経済、教育、福祉など、あらゆる分野でこの国を生まれ変わらせてください。
皆さんなら、きっとできるはずです。
最後になりますが、せっかくの皆さんの門出の日に、校長として 「 お祝いの言葉 」 よりも 「 お願いの言葉 」 を優先させたことを、許してください。
私は、皆さんにとって、あまり良い校長ではなかったかもしれません。 普段から、言葉遣いや身だしなみ、姿勢のことなど、大変口うるさい校長でした。
それだけでなく、最後の最後に、皆さんによい思い出をつくってあげることができませんでした。 地震のためとはいえ、皆さんが楽しみにしていた学年発表会も三送会も、やらせてあげられませんでした。
ただ、それでも、これだけは信じてください。
「 私は、皆さんのことが大好きでした。」
口うるさく注意したり、時には大きな声で叱ったりすることがあっても、皆さんのことをイヤだと思ったことは一度もありません。 それどころか、皆さんの笑顔、元気な挨拶、明るく屈託のない笑い声に、私は何度も勇気づけられ、つま先を前に向ける力をもらうことができました。
ですから、やはり最後は 「 お願い 」 でも 「 お詫び 」 でもなく、私の一番大好きな言葉でお別れします。
3年前、皆さんに出逢えて本当に良かったです。
私に出逢ってくれて 「ありがとうございました。」
私は、この中学校で、皆さんの校長でいられたから、また明日からもつま先を前に向けて、やっていけそうです。
おかげさまで・・ [母の徒然日記]
大地震以来連日テレビでは避難している方々にインタビューしています
その都度"おかげさまで・・・" "ありがたいです" という言葉をよく耳にします
地震以来約1週間 津波から命からがら避難してきて、津波で濡れてしまったままで着替えもしていないのに"おかげさまで、良くしていただいています""おかげさまで今日はおにぎりをいただきました ありがたいです"
明かりもつかない、暗い寒い避難所で1日中グラグラと余震が続く上に、原発の恐怖
想像を絶する環境の中に居るはずなのに、人に感謝する事を忘れない姿に、人として本当に学ぶ事が多いです
どうかどうか少しでも早く温かい食べ物、暖かい部屋、温かいお風呂、きれいな着替えが届きますように。。
私達には祈る事しか出来ないけれど